IF-Independent Films
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program A
水俣レポート1 実録 公調委
program B
勧進
program C
死民の道
【シリーズ2】公害の原点・水俣から学ぶ Vol.3
水俣レポート1 実録 公調委/勧進/死民の道
水俣レポート1 実録 公調委/ 勧進/死民の道
DVD

IFシリーズ2「公害の原点・水俣から学ぶ」全17枚セット
※こちらの作品はセット販売のみとなります。

価格 624,750円(税抜:595,000円)

公共・大学図書館、公共施設でご購入希望のお客さまや、作品に関しては、シグロまでお問い合せください。

個人用DVDは個別にご購入いただけます。
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program A
水俣レポート1 実録 公調委
Minamata Report1-The Central Pollution Board
映画が撮られた1973年1月というのは、水俣病裁判判決までわずか2カ月の時点だった。裁判の被告チッソは、一方で公害等調整委員会(公調委)に委任して、裁判には加わっていない患者との調停を進め、公調委は判決前になるべく多くの患者と調停和解をしようと急いでいた。判決補償額が提示された後では、それ以下の額で和解できなくなるからだ。公調委は急ぐあまり、印鑑盗用・文書偽造の書類まで受理していた。
患者は、上記の調停に応じた調停派、もしくは裁判でチッソの罪を問う訴訟派、さらには裁判をも通さず自主的にチッソを糾弾し直談判する自主交渉派、あるいは1969年に厚生省(現・厚生労働省)が設置した補償処理委員会に任せた一任派などに分かれて属していた。
元官僚や東大名誉教授で構成された補償処理委員会や公調委におまかせする一任派や調停派は“良い患者”で、裁判や自主交渉で、義を求める訴訟派や自主交渉派は“悪い患者”というチッソ城下町ならではの風潮があった。しかし、公調委が「個人の意志に沿う形で調停をすすめたい」という裏で進行していたことは、悪辣な印鑑盗用・文書偽造だったのだ。
1973年1月、患者と支援者たちが朝早く総理府(現・内閣府)前に詰めかけていた。患者本人の知らない間に調停委任状や申請書が、代理人によって公調委に提出されたと聞いたからだ。公調委事務局で3時間の押し問答の末、提出書類の一部が出された。支援者多数が事務局廊下に座り込んで会談の続行を外側で守った。患者の岩本公冬が、書類には患者署名の誤字や、住所の誤記、さらに故人の捺印があることを発見した。
深夜になって岩本が、自分のカルテを公調委に見せるよう医師に依頼したという、自分が書いてもいない書類を発見した。こうして代理人委任状の印鑑盗用・文書偽造の事実が判明した。
舞台は水俣に移る。3日後、公調委は調停依頼した患者149名の意志確認のため全員を市役所に招集した。公調委が事情聴取を始めようとすると、患者各派の意見の相違が進行を困難にし、調停派の代理人や患者は中途退席し始め、事務局員の懇願でやっととどまるという体だった。公調委はついに事情聴取の続行を断念した。
同じころ原田正純医師らが、埋もれた患者を自主的に診断していた。山内夫妻に重い運動障害と感覚障害が見られた。特にご主人は典型的症状をもつのに未認定だった。この老夫婦は何も言わないがために中風、高血圧、神経痛、とりめ、とされていたのだった。
この映画は緊急報告のため撮影後わずか2カ月で完成発表された。同時期に判決が下り、直後に『水俣一揆』の撮影に入った。『水俣一揆』の歴史的交渉は、自主交渉派、一部訴訟派、さらには岩本公冬のように調停派からも合流した患者たちで担われたが、その合流の一端がこの映画にみてとれる。岩本公冬が、映画班が追い出された後も会場内の録音を引き継いで音の記録が可能となった。
(『土本典昭フィルモグラフィ2004』より)
 
[スタッフ]
製作:高木隆太郎
演出:土本典昭、小池征人
撮影:高岩 仁、一之瀬正史
録音:浅沼幸一、宮下雅則
解説:大宮悌二
協力:藤プロダクション、小川プロダクション、三幸録音スタジオ、長征社

1973年/日本 記録映画/白黒/48min./青林舎
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programB
勧進
水俣病裁判係争中の1971年8月26日、西田栄一元チッソ水俣工場長に対する出張尋問が東京・神田友愛クリニックで行われた。水俣病患者代表13名が、傍聴のため上京した。これを機に、患者たちは、ご詠歌を詠いながらチッソ重役の自宅を一軒一軒まわり、「勧進」を行った。一軒づつ「勧進」をして歩けば、自分たちの気持ちが重役家族たちに伝わらないはずがないと――。
「勧進」は、人々に仏道をすすめて善に向かわせるという意味がある。患者の田中義光が、チッソ重役家族との相対による話し合いを求めて提唱した行動だった。9月といえまだ真夏日の東京で巡礼姿の患者一行は、長谷川常務取締役宅をはじめとして、チッソ重役宅を7軒まわった。しかし、門は閉ざされ、家族にはだれも会えなかった。背中に描かれた「水俣巡礼団」「同行二人」「苦海追放」の文字、門前にむなしく響くご詠歌が画面に凍りつく。
勧進はチッソ本社でも行われた。チッソ社員を前に、「いろんなことを聞いてもらおうと思って寄ったのです」「私はこの目で初めて、幼い患者を見たときのことが忘れられない。5つ6つの子どもが畳の上でゴロゴロしていてね。その姿が1週間くらいチラついて、よく眠れなかったのですよ」と切々とした言葉が紡ぎ出されるが、チッソ社員は無表情を決め込んでいた。
 
[スタッフ]
監督:小池裕子
撮影:佐々木正明
録音:久保田幸雄

1971年/日本 記録映画/白黒/24min.
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program C
死民の道
1971年11月から翌年3月までの水俣病救済をめぐる東京での交渉の記録を丹念に収めた貴重なドキュメント。
東京のチッソ本社前の坐り込みテント闘争が11月1日から断行され、12月には直接交渉が始まった。年末もおしせまる24日、テントが実力で排除される一幕もあったが、テントは再び設営される。
年が明けて1月7日、「五井事件」がおきる。チッソを「恥ッ素」とするユーモアが水俣の人たちにはある。坐り込みが3ヵ月に及んだ2月19日、患者たちは、坐り込みを絶対とかないと決意表明。ようやく27日に環境庁(現・環境省)長官の立ち会いの下で、沢田熊本県知事やチッソの社長らが交渉の席に現われる。「89人の患者さんたちは年金を払っているので満足している」との社長の言明のそらぞらしさ。「患者としてくたびれました」という言葉に返す言葉はない。
生活の破壊、村からの重圧、家族の負担につぶされるのを耐える人びとの心は、ただ「患者の苦しみを知ってほしい」と願っている。「チッソあっての政府、政府あっての企業、環境庁も(チッソを)つぶせんでしょう」とすら見切っているのだ。
3月9日、再びもたれた交渉の席でチッソ側は「会社としては話がまとまっていないので了承してもらいたい」「20万円の内金で願えませんでしょうか」ともちかける。そして21日、ついに交渉は決裂。第三者機関に調停が託されることとなった。
画面に出てくる双方の顔の、とくに視線に注目してほしい。ともすれば下方に落ちていきがちなチッソ側の視線とまっすぐ心につきささるような水俣の患者、関係者の視線が実に対照的で印象に残る。
(『シグロ・フィルモライブラリー』より)
 
[スタッフ]
監督:一之瀬正史、堀傑
撮影:一之瀬正史
スチール:塩田武史、宮本成美
ネガ編集:竹村重吾、藤田末光
録音:TEA

1972年/日本 記録映画/白黒/40min.
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