作家名

写真 伊藤喜彦さんこそ、「ふしぎのアーティスト」と呼ぶにふさわしい。だが、ちょっと待ってもらいたい。手元の辞書で「ふしぎ」を引くと、思いはかれないこと、普通では考えられない様子、などと記されている。そこで少し深く考えると、ふしぎでないアーティストって本物のアーティストなのだろうか、という命題が浮かんでくる。そう、そうだ。アーティストにふしぎをつけるのは、「甘いおしるこ」とか「しょっぱいうめぼし」とわざわざ書くのと同じで、とても滑稽な気がしてくる。

 寮でも職場でも朝から夜まで「なさけない」を眩く伊藤喜彦さんの立ち居振る舞いは、ものすごくふしぎだ。もちろん作品は、もっとふしぎだ。彼と長年ともに暮らしている信楽青年寮の職員たちも、「はっきりいって分からない」と、みんな口を揃えてそう言う。ただし、創りだされた作品は伊藤喜彦さんそのものだと、これもまたみんながそう言う。あの突起物は鬼の目だと、ある時本人が言ったとか言わなかったとか、情報もはなはだ交錯していて信憑性に乏しい。謎が謎を生む。そこがアーティスト伊藤喜彦の真骨頂だ。

 本編の撮影監督を務めた画家の田島征三氏は、「妖素」という聞き慣れない言葉で彼の魅力を解説している。「鋭さとやさしさ」がにじみでる彼の作品には、同時に、怒りと愛が混ざり合った「毒」が含まれている。「毒」の主成分が妖素であり、これは地球上に2つとなく、彼だけが持っているもので、それが私たちの心にひっかき傷を残す。それがなんだか心地良い。

 彼は生来のアーティストであり、ものづくりの発想や感性は芸術家のそれである。しかも彼は、天性のものだけでなく、日々の喜怒哀楽からにじみ出た「お汁」を土に混ぜて創っている。田島征三氏は、著書の中でそう述べている。いやいや、ますます伊藤喜彦さんが分からなくなってくる。ああ・・・なさけない、なさけない。

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