映画 日本国憲法
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司会(山上)
 どうもありがとうございました。今映画のほうの関係者の3人にお話を聞きました。
 先ほど控室で韓洪九さんのお父さんの年齢がちょうど実は大田さんと同じ年齢だという話を伺ったばかりなんですけれども、いまの話を聞かれて沖縄からの視点ということで大田さんにお話をいただけますでしょうか。
大田昌秀
 私は今からだいぶ前になりますけれど、アメリカに留学している時に韓国からの留学生と日本本土から来た留学生たちを私のアパートにお招きして、すきやきパーティーをしたことがあります。ところがそのときに、韓国の学生が日本本土から来た学生に対してまったく口をきかない。本土から来た学生は韓国から来た人たちに対して口をきこうとしない。
 私は大変困ってしまって、韓国から来た留学生を別室に呼んで、何で口をきかないのかと言ったら、「日本人とは口をききたくない」と言われて大変困ったです。「僕も日本人だ」と言ったら、「お前は日本じゃない」と言われて(笑)。それで、その時に、ちょうど朝鮮戦争が終わってまだ4〜5年しか経っていない時でしたから、私たちが北朝鮮のことを少しでもよく言うと、韓国の留学生たちからものすごい反発を食らったわけです。もうまるで敵みたいな格好で怒鳴られたわけなんですが、それからしますと、最近の韓国と北朝鮮の間柄というのは少しずつ良くなっているなあという感じがしております。

 マスコミには出ておりませんけれど、日本の各都道府県の労働組合とか組織団体、あるいは市民団体というのは一般に信じられている以上に北朝鮮にも訪問しているわけですね。私が北朝鮮を訪問したこともありますが、その時に北朝
鮮の人たちがすごく歓迎してくれたわけです。「君たちはほかの日本人とは違う」と言うから、「どこが違うんだ」と言ったら、ピョンヤンに落とされた爆弾と沖縄に落とされた爆弾、1坪にどれだけの爆弾が落とされたかということを比較すると、まったく同じだと、つまり「我々と沖縄の人は同じ被害者だから、ほかの人と比べて、本土の人たちというのは加害者だからあの人たちとは一応は礼儀正しくもてなしているけれど、本心はそうではない。しかし沖縄の人はまったく我々と同じ被害者だから気が合うんだ。だから特別待遇したいよ」なんて言われて、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなくなっちゃったんですが(笑)。

 さて、そういういろいろな状況がありまして、私は最近の憲法の問題で言いますと、加藤周一先生がお書きになっている、いまの憲法を変えるという問題、これはけっして国内問題ではなくてまさに国際問題だと、とりわけアジアの問題だということを強調されておられますが、私もまったくその通りだと思います。先ほど映画を観せていただきましたが、映画に出てくる方々がほとんど私が支持したとか付き合った方々でございまして、日高六郎先生は東大の新聞研究所でお世話になって、沖縄にも何度かお招きして講演していただいたりした方ですが、先生方のおっしゃることが今非常に大切ではないかと、その意味で今回の映画を作られたということは、私は心から感謝を申し上げたいという気持ちでいっぱいです。
 ジョン・ダワーさんというのは今日、知日派の学者としてずば抜けて優秀な方だと思いますが、たまたまそのダワー先生の『敗北を抱きしめて』というベストセラーの本があって、ピューリツァー賞をふくめて10以上の賞をもらった本なんですが、その翻訳をしている三浦さんという中部大学の教授ですが、この人はちょうど私がアメリカの国立公文書館で一所懸命に資料をあさっている時に、彼もやって来ていつも一緒に資料をあさっていた仲でございます。

 チャルマーズ・ジョンソンさんも、去年アメリカに行って、しばらくぶりでお会いして来たわけですが、この沖縄問題は先ほど私が申し上げたように、日本の国会においてはもう圧倒的多数が他府県選出の国会議員で、なかなか自らの問題として沖縄問題を取り上げないわけなんですけれども、私は以前に復帰前にヒロシマ会議のときに、イタリアの有名な労働組合の指導者のダニーロ・ドウチという人と対談させられたことがありまして、そのときに彼に「沖縄みたいに周辺を壁で囲まれているそういう状況で、あなたがもし沖縄県の知事だったら、どういうふうにこの基地問題というのを解決しようと思いますか」と言ったらですね。彼は「確かに権力の壁というのは厚い。その壁を正面から突き崩そうとしても、権力というのはそうやわなものじゃない。したがって、壁は壁で残しておいて壁の向こう側にたくさんの友だちを作りなさい。理解する人を作りなさい。問題を理解してくれる人を作ったほうが解決が早いですよ」と忠告を受けました。

 それからヨハン・ガルトゥングという世界的に有名な平和学者がおりますけれども、この方と対談したことがありますが、この方はまた同じような質問をして、「もしあなたが沖縄県知事としてあれだけの基地を抱えていて、日米両政府が肝心の地元の言うことを聴いてくれない場合、どういうふうに解決しますか」と聞きましたら、ヨハン・ガルトゥング先生は「民衆を信頼しなさい。もう沖縄の問題が解決したも同然だ」と、「これほど世界的に沖縄の名前が知られるようになったのは民衆の努力のお陰だから、民衆を信頼しなさい」とそういうことを言われたわけなんです。

 さて、そこで私は今のアジアの問題について考える場合に、実は非常に痛い思いをしたのは、沖縄戦に参加したある中隊長が戦後、厚生省の役人になって、自衛隊の陸軍大学、そこでも教鞭を取ったような人なんですが、この人が沖縄戦の住民の悲劇について語ったなかで、日本は明治以来すべて戦争は国外でやってきた。国外で戦争をやって国内で戦争をやったことはないと。
 したがって沖縄戦というのは国内の戦争だったけれども、国内での戦争の仕方というのは日本の軍隊は知っていなかったと。したがって国外の戦争でやっていた習慣をそのまま国土戦である沖縄戦に持ち込んだ結果、住民の悲劇は起こったんだということを記録しておられるわけですね。そうすると私は国外の戦争でやっていた習慣とは何だろうかということを考えつづけたわけです。
 それで中国に行って戦争記念館、虐殺記念館に行ってみますと、実はショックを受けたのは、沖縄戦の首脳部、沖縄首里軍の首脳部が南京事件に関わっていたということが、名前が出ているのに非常に大きなショックを受けたわけですね。つまり、どういうことかと言いますと、沖縄では住民というのはけして軍隊によって守られるべき対象ではなくてあくまでも共生共死。軍隊と軍官民が共生共死というのはいちばん最初から言われていたわけです。
 守られるべき対象ではなくて非戦闘員は軍隊と一緒に死も共にするということで、死の道づれにされたというのが沖縄戦の悲劇なんですね。残念ながら中国でも住民に害を与えたというのがいまもって根を引いているわけなんですが。

 そういうところからどうすれば問題を解決できるかということで、まあ小さなところからひとつひとつやろうということで、先ほど先生からもお話がありました。私が知事の時に平和の礎というのを作って、すべての犠牲者の名前を刻むということにしたわけです。ところが日本政府に聞いても厚生省に聞いても、朝鮮半島から来た人たちの犠牲者のリストはまったくないという。
 で、私はソウルまで行きまして韓国政府にかけあってそういう名簿がないかと言ったら、まったくないと言うことだったわけです。しょうがないから、調査するのは研究者として専門家ですから、ソウル大学に秘書をつれていって、ソウル大学の国立図書館であさっていたら500名ほどの沖縄戦で犠牲になった人の名前が出てきたわけです。
 ところがそれは創氏改名でみんな日本名になっているわけです。我々が名前を刻む場合はご遺族の方の許しを受けて刻むわけです。ですからアメリカの兵隊の名前を刻むのも、アメリカはワシントンまで行ってわざわざ向こうの組織がありますから、その組織の許可を得て刻んだし、イギリスというのは一般には沖縄戦というのはアメリカと日本軍が戦ったと思われてますが、じつはイギリスも戦ったわけですね。イギリスの兵隊も攻めてきたわけです。
 イギリスの兵隊は宮古八重山を攻めたわけですね。イギリスの兵隊も82名ほどですか、名前が刻まれておりますけれども、私は自分でイギリスのほうまで行ってロンドンの戦争博物館をいろいろあさって、そういう戦争の犠牲の資料なんか、あるいはどういう形で沖縄戦を見たかということなんかもやってきたわけです。

 そういうことをやりながら、ある日韓国から遺族の高齢者の方が沖縄の知事室にやって来られて、すごい勢いで「名前を刻んだからといって、もうそれで謝罪したということになるのか。こんなことくらいで我々の心の傷が癒えると思うか」と言って大声で怒鳴られてしまって、その時に非常にショックを受けたわけですが、じつはそのためもあって、日本名で刻まれているのを元の韓国名に戻すということで大変苦労したわけです。
 しかし、幸いに明治大学という大学の教授がたいへん協力的で、そのゼミの学生を韓国全国に派遣して、その遺族会とかそういうところに送ってやっと100名あまり、200名ちかくの人たちの名前を刻むことができた。それに3年半くらいかかったわけですね。
 なぜそういうことをやったかと言うと、実は今の戦争というのは、戦争によって勝つことと負けるということと区別できないほど、勝った人も心にすごい傷を負うわけなんです。生き延びたからといってそれで万々歳かというと、けっしてそうではなくて、生き延びた人こそもっとむしろ苦しい思いをして、心の傷が深いわけなんです。

 実は私たちが今沖縄戦は終わっていないということを絶えず言っているのは、どういうことかと言いますと、戦争のときに生じた不発弾が最初はアメリカ、次は琉球政府、いまは自衛隊が処理していますけれども、すでに2500トンくらいは処理されていますが、まだ地中には5000トンくらい残っている。専門家に言わせますと、これを処理し終わるまでにはあと60年から100年くらいかかるだろうと言われているわけです。
 遺骨ですが、沖縄戦で犠牲になった人たちの遺骨がまだ5000体くらい残っているわけです。収骨されていないわけです。
 それから戦争で生き延びたけれども心の傷を負って精神的に病んでしまって生き延びたものの精神病院に隔離されるような形になって、この60年間まったく一歩も外に出てこれない人たちがまだたくさんいるわけです。私の同級生にもそういう人がまだいて、私の後輩にもそういう人がいます。60年間戦争から生き延びて一歩も社会に出てこれないという人たちの人生っていうのはいったい何かっていうわけですね。そういうことでやっています。

 そういうことを考えると、やはり韓国やあるいは中国の日本の旧軍隊によって殺害された人たちのご遺族たちの苦しみはほんとうに言葉では言い表せないものがあると思って、我々はそれを少しでも良くする方向に持っていこうということで、実は韓国にも台北にもソウルにも、中国の福建省にもシンガポールにも香港にも県の事務所を置いて、県の物産を売ると同時に、いろんな交流をしている。
 今沖縄では中国語、韓国語、英語、スペイン語かポルトガル語、それからタイ語、フランス語、この6か国語で同時通訳をずっと育てているわけです。それから留学生の交換をしているだけじゃなくて、中国とは歴史的に非常に深い関係にありますから、中国の福建省と交渉して福建省に土地を提供してもらって、沖縄がお金を出して福建沖縄友好会館といって地下2階地上12階建てのビルを造って、それを福建省に寄贈しております。そこには中国の業者と沖縄の業者が入っていてお互いに物資を売り買いするというような関係を作っておりますし、ソウルなんかにも沖縄の事務所を置いて、交流を深めている。
 とくに最近、琉球の教授とか若い助教授とか学生なんかがソウルに行って勉強する人が非常に多いし、北京大学にも自費で留学しているのもいるし、そういうことがありますので、口先だけで言うのじゃなくてやはり一歩一歩確実に積み重ねてゆくということが非常に大事だと思います。
 どうも長くなって失礼しました。(拍手)
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画 / 奈良美智「Missing in Action -Girl meets Boy-」(広島市現代美術館所蔵)
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